これからの幸せの手がかり
「生きがいを探して生き様を愛する」
パフォーミングアーティスト
アオイヤマダ
パフォーミングアーティスト。長野県出身。10代で単身上京し、独自の身体表現を確立。東京2020オリンピックの閉会式をはじめとするソロでのパフォーマンスにとどまらず、多様なバックグラウンドを持つメンバーが集うパフォーマンス集団「東京QQQ」でのクリエイションや、映像作品、舞台、ナレーションなど多岐にわたり活躍の場を広げている。
Q&A
「あいだ」の ウェルビーイング“We-Being” を叶えるためのキーワード
「生きがい」は人それぞれで、私にとっては楽しみながらも、それが道端の花のようにふと誰かを救ったり、愛されたりすることです。そしてその先にあるのが「生き様」です。自分のバックグラウンドや過去の葛藤、人間関係を含めた「生き様」のすべてを愛せるようになりたいと思っています。
それを実感したエピソードは?
畑で野菜を育てた経験や、パフォーマンス集団「東京QQQ」での活動を通して実感しました。例えば、畑で育つ植物の姿から「自分のありのままの存在が、図らずも誰かを救うことがあるんだ」と気づかされたり、強い個性を持ち寄る仲間たちとぶつかり合い、補い合う中で、自分の「短所」が誰かの「長所」と結びついたり。そんな関係性の中にこそ、幸せがあると感じています。
Interview
キーワードやエピソードの周辺には、どんな想いがあるのでしょうか。お話を伺いました。
道端の花のように咲き、誰かと響き合う
──アオイさんにとって、「幸せ」とはどのような状態を指すのでしょうか。
私にとっての幸せは、「道端の花」のような状態です。誰かに見せるためでもなく、ただ自分が一生懸命生きるためにそこに咲いている。それなのに、通りかかった誰かにふと「綺麗だな」と思われたり、人を癒やす力になっていたりする。強い風が吹いても折れることなく、ゆらゆらと揺れながら自然体で咲き続けている。そんな瞬間が、一番幸せです。 また、朝に散歩やランニングをしているときに、太陽を見て「ああ、温かいな、ありがたいな」と素直に思えるとき。そういう些細な瞬間に、「今、自分のコンディションがすごく良いんだな」と幸せを実感します。

──その気持ちに至るまでに、ご自身のなかで何か変化はありましたか?
以前は「人に喜んでもらうこと」そのものが生きる軸になってしまっていて、正直に言うとすごく苦しかった時期がありました。相手の顔色や期待ばかりを気にしてしまうと、自分がすり減ってしまうんですよね。メディアへの露出が増えた時期には、「周りの期待に応えられなかったらどうしよう」と踊ることが怖くなってしまい、カメラの前でただ泣くしかできなかったり、インタビューで過呼吸になったりしたこともありました。 そこから考え方が少しずつ変わっていきました。「誰かのために咲く」のではなく、まずは「自分が生きるために咲く」。その結果として、ふとした拍子に誰かが喜んでくれたり、誰かの力になれたりすればいい。そう思えるようになってからは、「じゃあもっと咲いてやろう」と自然に前を向けるようになりました。
──ソロでの表現活動だけでなく、パフォーマンス集団「東京QQQ(読み:東京サンキュー)」での活動など、チームでの表現にも力を入れられています。複数人でクリエイションを行う面白さはどこにありますか。

大人数で何かを作ることは、「知らない自分を知るきっかけ」になります。チームの中で「私にはこれしかできないんだけど」とぽんと投げた小さなアイデアが、他のメンバーの手を経て思わぬ大きな一歩や発見に化けることがあるんです。仲間の姿を通して自分自身の輪郭を知ることがあるように、他者はまさに自分を映し出す「鏡」のような存在だと感じています。 10代の頃の私は、「自分を保たなきゃ」「一人で強く土を破って立ち上がらなきゃ」という意識がすごく強かった。野草のように、まず強い力で芽を出さなければ生きていけなかったんです。でも、いざ地上に顔を出してみたら、周りにいる多様な人たちと共生することで、自分自身ももっと強くなれるし、自分の存在が相手にとってもプラスになると気づきました。
──チームにおけるご自身の役割はどのように捉えていますか。
大人数のチームには、先頭を走る人と、全体を後ろから支えてまとめる人の両方が必要です。私はどちらかというと、「あっちに面白そうなものがあるよ!」「この木で遊んでみようよ!」と先頭を走って旗を振るタイプで、全体をうまくまとめるのは得意ではありません。 実はいちばん後ろを歩いている人が全体をまとめてくれていたりする。お互いに得意なことや不得意なことを持ち寄り、自分がやってみたいことを投げて、誰かが「じゃあこうしよう」と重ねていく。そうした掛け合いのなかで、一人では絶対に辿り着けなかった景色に出会えるのが、チームで創る醍醐味です。

「同じ目標や緊張感の中で心地よくいよう」
──言葉によるコミュニケーションと、身体を通じた表現にはどのような違いがあると感じますか。
私にとってダンスやパフォーマンスは、「言葉で表せない部分を補うもの」です。幼少期の私はものすごく人見知りで、人前で話したり歌ったりすることが全くできませんでした。そんなとき、近所のお姉さんがカラオケで自由に踊っている姿を見て、「あ、言葉で話さなくてもいいんだ」と目の前がパッと開けるような衝撃を受けたんです。パチッと第三の目が開いて、意識がボワーッとしていた状態から生まれ変わったような感覚でした。それが身体表現を始めた原点です。 普段のパフォーマンスでも、観てくださった方が「昔の記憶を思い出した」「意識していなかった感情の輪郭が見えた」と言ってくださることが一番嬉しいですね。私自身も10代の頃にダムタイプや寺山修司さんの作品を観たとき、脳内の点と点が全部つながるような体験をしました。言葉だと白黒つけたりぶつかり合ってしまうことでも、身体を通すことで、お互いの「違い」をそのまま面白がることができると感じています。

──人と深く関わる中で、いい関係性を築くために大切にされていることはありますか。
以前は「思ったことをすべて正直に言うのが相手のためになる」と思い込んで失敗したり、逆にすべてを我慢してしまったりと、0か100かの極端なコミュニケーションをしていました。でも、本音をすべてぶつけて関係を壊してしまうのも違うし、我慢し続けるのも違う。 以前、仲間と5人で北アルプスの雲ノ平に登ったことがあります。歩くペースの違いは当然ながら、山小屋でずっと喋っていたい人もいれば、私のように一人で静かに本を読みたい人もいる。もちろん全員が自分勝手に振る舞えば調和は崩れてしまいますが、お互いに少しずつ気を配りながら、「自分を保ちつつ、全体の和も保つ」という絶妙なバランスを探り合いました。 無事に下山して「みんなで生きて帰ってこれたね!」となった瞬間、その探り合っていた時間のすべてが肯定された気がしたんです。「同じ目標や緊張感の中で心地よくいよう」という共通の想いがあれば、自然と温かい関係性が立ち上がるのだと学びました。
土に触れ、時間をかけて知る「等身大の自分」
──日々の生活の中で、「誰かとの関係性や場の空気のなかに身を置いているからこそ、穏やかな安心感や大きな幸せを感じる」と思えた場面はありますか?
この夏、長野に帰省してずっとおばあちゃんと過ごしていたのですが、すごく幸せだなと感じました。15歳で単身上京して以来、無理やり大人にならざるを得ない部分もありましたが、おばあちゃんといると、幼少期の自分にタイムスリップするような感覚がありました。人と会うことって、ある意味でタイムマシンのようなものだなと感じます。 すこし前におじいちゃんが亡くなったのですが、そのおじいちゃんが種から育てていた野菜の苗が大きく育ち、たくさんの野菜を収穫できたんです。それを見たときに、「自分が今やっている小さな活動も、いつかこうして実って収穫できる日が来るんだ」と強く思えました。そう考えると、おばあちゃんとの何気ない日常会話も含めて、人生に無駄なことなんて一つもないんだと実感します。

──野菜を育てるプロセス自体にも、特別な手応えがあったのでしょうか。
地元の長野で初めて本格的に畑を耕して、ズッキーニを一株だけ植えてみたんです。そうしたら驚くほど大きく育って。「どうしよう」と思っていたのですが、よく見ると、ズッキーニの巨大な葉っぱが地面を覆うおかげで、その周りだけ全く雑草が生えてこなかったんです。他の畝は草取りが大変なのに、そこだけ草むしりをしなくて済んだ。 その光景を見たときに、「ああ、自分自身が大きく育つことや、一見周りに迷惑をかけているように見えることでも、知らず知らずのうちに何かを救ったり、助けたりしていることがあるんだな」と腑に落ちました。 インターネットの世界は目まぐるしいスピードで進みますが、野菜は時間をかけてじっくり育ちます。以前、千葉のオーガニックファームで出会った同い年の女の子が「教育を学びたいから、まず野菜を育てる」と話していてすごく納得したのですが、土に触れてじっくり手をかける時間を通して、ようやく等身大の自分が見えてくるのだと思います。
社会のどこかにある「穴」にハマる喜び
──表現者として葛藤した時期を経て、現在はご自身の活動をどのように感じていますか?
一時期、「ダンスやパフォーマンスは便利な道具を生み出すわけでも、病気を治せるわけでもない。もっと直接的に人の役に立つ仕事をしたほうがいいのではないか」と思い詰め、大学受験を考えた時期もありました。でも、勉強机に向かっていると心がどんどん暗くなってしまって。 そんなときに友人のパフォーマンスを観に行ったら、隣にいた子どもたちが目を輝かせて大喜びしていたんです。その光景を見た瞬間に、「私はなんて思い違いをしていたんだろう。パフォーマンスやダンスは、こんなにも人を喜ばせて元気にできる素晴らしい『発明』なんだ」と心の底から感動し、自分の活動を再び信じられるようになりました。いまは私自身、観てくださった方から「悩んでいたけれど前を向けた」というメッセージをいただくたびに、表現者として生きていてよかったと心から思います。
──他者と関わる中で感じる「ウェルビーイング」について、改めてどう捉えていますか。
誰かに必要とされ、自分の役割を果たせたときに深い幸せを感じます。例えばみんなでご飯を食べているとき、お水が足りているか、お箸が行き渡っているかを気にして、自然と自分の動ける場所を探してしまう。社会のどこかにある「穴」を見つけて、そこに自分がスポッとハマることで、誰かがスムーズに道を渡れたとき、「やった、幸せだな」と思えるんです。

最近では演技や声のお仕事もさせていただいていますが、これも「声が良いからやってみなよ」と周囲が言ってくれたからこそ踏み出せました。自分の欠点や苦手なことも、他者の視点を通すことでひっくり返り、思いがけない長所になることがあります。 赤ちゃんが周りの人の仕草を真似して育つように、人間は周囲に影響されながら形作られていくもの。自分ひとりの殻に閉じこもるのではなく、周りを受け入れ、変化し続けながら、お互いのデコボコを補い合っていけたらいいなと思います。
「生きがい」を探して「生き様」を愛する
──表現活動や他者との関わりを通じて、読者に伝えたいメッセージはありますか。
「生きがいを探して生き様を愛する」という言葉を大切にしています。「生きがい」と聞くと、何か人生を変えるような大きなものを想像しがちですが、決して大げさなものである必要はありません。一度ズッキーニを植えてみたり、日常の小さな楽しみに気づいたり、身近な誰かのために動いてみたり。そうした日々の小さな「楽しい」「嬉しい」の積み重ねが生きがいになります。 そして、その積み重ねの先に、自分だけの「生き様」が立ち現れてくる。私が所属するパフォーマンス集団「東京QQQ」の仲間たちも、さまざまな体型とバックグラウンドを持ちながらも、自分たちの生き様そのものを作品として表現しています。「この仲間となら、どんな壁でも一緒に乗り越えていける」と思える関係性そのものが、私の大きな生きがいです。 自己犠牲的な献身も生きがいの一つであっていいけれど、それが生き様のすべてではありません。生きがいはいくつあってもいい。過去の挫折やコンプレックス、不完全な自分も含めて、歩んできた道のりのすべてを愛してあげること。自分らしく咲きながら、誰かと出会い、お互いを肯定し合って生きていくことこそが、私たちが目指せる豊かなウェルビーイングの姿です。










