これからの幸せの手がかり
「とことん誠実になること」
大学院生/柔道選手
フーウェイ
1998年、タイ出身の母と中国出身の父のもとに東京で生まれる。2025年、Netflixのリアリティーシリーズ『ボーイフレンド』シーズン2に参加し、知性と圧倒的な身体能力を兼ね備えた「文武両道」の佇まいで注目を集める。現在は神戸大学大学院の博士課程1年目に在籍して人類学やジェンダー論の研究をしながら、8歳で始めた柔道でタイ代表としてロサンゼルス五輪への出場を目指している。
Q&A
「あいだ」に宿る ウェルビーイング“We-Being” を叶えるためのキーワード
綺麗で都合の良い自分だけを見せるのではなく、自分の弱さや嫌な部分もすべてさらけ出すことです。誠実な自己開示には、傷つく痛みやリスクが伴いますが、これなしに良い関係は築けません。そうして自己開示を続ける先にこそ、お互いを条件なしに受け入れ合える確かな信頼関係があると信じています。
それを実感したエピソードは?
私にとっての幸せとは、単独で生み出されるものではなく、人々との関わりの中で形作られるものです。特に強く実感するのは、『ボーイフレンド』での共同生活や大学の寮生活などで経験した、「食」を通じた総合的なケアの空間に身を置くときです。だれかが作ったご飯をみんなで囲み、ホッとする時間を共有する。そうした生活の根本にある緩やかな連帯の中にこそ、幸せがあると感じています。
Interview
キーワードやエピソードの周辺には、どんな想いがあるのでしょうか。お話を伺いました。
文化の境界をまたいで見つめた「幸せ」の出発点
──近年、「ウェルビーイング」という言葉が盛んに語られますが、その多くは個人の幸福に焦点を当てているように思えます。しかしアジア圏には、周囲と穏やかに馴染み、他者とともに生きることに幸せを見出す文化が根強くあります。日本、中国、タイにルーツを持つフーウェイさんは、この「人と人の間に立ち上がる幸せ」をどのように捉えていますか?
私は日本と中国・上海で育ちましたが、幼い頃に行ったタイ南部の母の実家での光景が強く記憶に残っています。そこはタイの中でも少数民族であるマレー系の人々が暮らす地域で、血縁関係がなくても「時間になったから集まって一緒にご飯を食べよう」と言い合うような、非常に密接で地続きの人間関係がありました。いわば「拡張家族」のようなコミュニティーですね。 欧米的な個人主義では「自分が好きなように生きればいい」「好きに生きられる社会を目指そう」という言説や理想があります。しかし、それが一種の押し付けのように感じられることもあります。私たちの「どう生きたいか」というアイデンティティーは、もともとそこにある人間関係や家族、文化的な繋がりの中に深く根ざしているからです。集団における自分の役割や立ち位置を全うすることに幸せを感じるという感覚は、アジアの多くの地域で習慣として今も息づいているのではないでしょうか。

──「みんなで分かち合う幸せ」ですね。ほかにも西洋とアジア圏の差を感じた場面はありましたか。
例えば柔道は個人種目ですが、国際試合に出場するとチームのあり方に明確な違いが出ます。ヨーロッパの選手はチーム戦であっても個人の意識が強く、「自分がのし上がるんだ」という姿勢を前面に出します。 一方で日本は団体戦の団結力に大きなパワーを見出しますし、東南アジアのチームにいたっては、練習のスタイルから「今はみんなで同じ動きを合わせよう」という共同体意識が極めて強く現れます。どちらが良い悪いではなく、それぞれのコミュニティーに異なる心地よさがあるのだと感じています。
強固な共同体がはらむ「同調圧力」と「孤立」
──一方で、そうした強固な共同体(あるいは集団)は、個人の自立を縛る側面もあります。
その通りだと思います。システムががっちりと決まりすぎている共同体は、入る人に強い適応を求め、そこからはみ出る者を容赦なく排除します。
──日本の社会や職場では、そうした同調圧力や「空気を読む」文化によって孤立に直面する人が多いように感じます。そこから身を守るためには何が必要でしょうか。
コミュニティーを「複数持つこと」です。日本の教育は良くも悪くも共同体主義的で、子どもたちは学校と家族という2つの小さな世界だけで生きています。だからそこでいじめに遭ったり、馴染めなかったりすると、もう逃げ道がなくなってしまう。 それは大人になっても同じではないでしょうか。異なる属性や価値観を持った他者が入ってきたときに、「この人はちょっと違うから邪魔だ」と、悪気なく排除の圧力をかけられる傾向は強いように思います。 だからこそ、私たちは複数のコミュニティーをまたいで生きる必要があります。私の場合は、柔道の世界、アカデミアの世界というように、異なる役割を持てる場所を掛け持ちしてきました。ひとつの共同体で「異端児」として扱われても、別の領域に行けば違う生きやすさがある。逃げ道を複数持つことは、自分を守るだけでなく、世界を多角的に見るための視野の広さを育んでくれます。

──シスジェンダー(※1)・ヘテロセクシュアル(※2)主導の組織では、クィア(※3)当事者はさらに「だれに相談していいか分からない」という二重の孤立に直面しがちです。組織や空間が、マイノリティにばかり「馴染む努力」を強いるのではなく、マジョリティの側が自身の「特権に気づき、一歩引いてスペースを譲る」という協調のあり方を進めるためには、どのような視点が必要だと思われますか?
組織のあり方を変えるために最も重要なのは、マジョリティ側にいる強者、特に日本の年功序列的なシステムの中で、ずっと同じ組織のルールだけで生きてきた人たちが、いかに「自分の視野の狭さ」を自覚できるかだと思います。 同じコミュニティーに属し続けて上に立った社長や上司は、結局、その組織の中のルールや価値観しか見えていません。彼らは、自分がその空間で快適に過ごせていること自体が、システムによって守られた「特権」であることに気づいていないのです。 こうしたマジョリティ中心の空間をひらくためには、苦しんでいない側にこそ、あえて複数の異なる場所に掛け持ちで属し、多様な見方を知る経験をしてもらうべきです。人間は、自分が別の場所で「異物」になる経験をして初めて、自組織の歪みや自分の特権性に気づくことができます。上に立つ人たちが自らのルールを絶対視せず、異なる存在のために一歩引いてスペースを譲る勇気を持つこと。その視野の広さがあって初めて、真のアライシップが空間設計に組み込まれるのだと思います。
共同体での食事と、生活に根ざした総合的なケア
──マジョリティが作ったシステムに弾かれたとき、あるいは社会の不条理と戦うとき、私たちはどのようにして心身の健康、すなわち「Well-being」を保てばよいのでしょうか。フーウェイさんが実践されている「ケア」について教えてください。
私自身、心に余裕がないときは人に優しくできませんし、一人になったときに「あのとき、自分は冷たかったな」と反省してばかりです。ただ、私が実感する「心地よいケア」の原風景は、いつも生活の根本、特に「食」の空間にあります。 例えば私が参加したリアリティーショー『ボーイフレンド』シーズン2の「グリーンルーム」のようなシェアスペースでの共同生活や、かつて暮らした大学の寮での思い出がそうです。疲れ果てて帰ってきたとき、そこには自分の帰りを待っていてくれるメンバーがいる。そして温かいご飯が用意されている。ご飯を作ってもらったから、今度は自分が皿を洗おう、というような、家事の緩やかな分担と循環が自然と生まれる空間です。 大学の寮でも、夜遅くになると、だれからともなく自然とメンバーが食堂に集まってきました。だれかがとりあえず作った夜食を「これ美味しいね」と言いながらみんなで食べ、新しい料理のアイデアを開発したりする。そこに行けば「いつものメンバーがいる」という安心感。生きる中でのケア、つまり「総合的なケア」とは、このような生活の最も原初的な部分にあるのではないでしょうか。人間関係において、この「何もしなくても一緒にいられる時間」の積み重ねこそが、孤立を防ぐ最大のセーフティーネットになるはずです。

──「ともに心地よく存在する」ために、フーウェイさんが最も大切にされていた振る舞いや哲学は何ですか?
私はコミュニケーションにおいて「何があっても、まずは一旦相手の言葉を否定せずに受け止める」ということを意識しています。絶対に分かり合えない部分はあると割り切りつつも、「この人はこういう環境で育ち、こういう考え方だから」と個としての存在を受け入れる。 かつて私が属したコミュニティーでは、私自身の属性や言動が周囲から「異端児」として扱われ、外されることも多くありました。しかし、時間をかけて「この人はこういう人なんだ」というキャラクター性が周囲に伝わると、次第に排除されなくなる。「だからこういうふうにみんなで接しよう」「この人はこれが得意だから、この役割を任せよう」という、静かな見守りと助け合いに変わっていく場面を何度も見てきました。違いを排除するのではなく、違いを前提とした上で、時間をかけてコミュニケーションの作法を学び合えるといいですね。
「誠実な自己開示」という生存戦略
──他者と本当の意味で連帯するために、私たちに必要なステップは何でしょうか?
私がやってきたやり方は、すべてをさらけ出すこと、すなわち「とことん誠実になる、正直になる」ということです。自分の嫌な部分や、これを言ったら嫌がられるだろうなという属性も含めて、出会った初期の段階からできる限り相手に伝えていきます。これは単に「仲良くなりたいから」という甘い動機ではありません。相手が私の本質に対して正直に向き合える人間かどうかを試し、深く関わるべきか否かの境界線を引く「見極めのプロセス」でもあるんです。 自分を偽って、相手に気を使って優しく振る舞っても、長く付き合えば付き合うほど必ずどこかにしわ寄せが来て、その嘘は見破られてしまいます。特に外国人やクィアといったマイノリティは、マジョリティ側から「悪しき存在」としてシャットアウトされないよう、必死に「良い人」を演じてしまいがちです。しかし、それでは本当の信頼関係を築くのは難しいと思います。
──すべてをさらけ出すことには、当然、大きなリスクや痛みが伴いますよね。
おっしゃる通りです。出会ったばかりなのに「なぜそんなことまで話すの?」と拒絶されたり、一番嫌なパターンでは、属性を伝えた瞬間に敬遠されて関係が終わることもたくさんあります。自分を偽らないということは、とことん傷つけられる可能性を受け入れるということでもあります。しかし、人と関わり続けること、出会い続けることは、そもそもめちゃくちゃに難しいことであり、本質的に痛みを伴うものです。自分がしたことで相手を傷つけたのではないかと負い目を感じることもあります。 それでもなお、私たちが自己開示を止めないのは、人は決して一人では生きていけないからです。一人で生きられるように見えても、社会の権力構造の中で、私たちは絶対に他者を、そしてオルタナティブな共同体を必要としています。 今の日本社会は、過去の経済的優位性を失った不安からか、内向きなナショナリズムを強め、「強さ」ばかりを誇示して、自分たちと異なる他者を知ることを怖がっているように見えます。誠実になれず、強がっている状況です。しかし、解決への道は、個々人が勇気を出して自分の弱さを認め、他者を知ろうと一歩を踏み出すところにしかありません。お互いに傷つき、傷つけられながらも、とことん誠実に向き合い続けること。マジョリティが都合よく使う「みんな」という言葉のまやかしを疑うこと。泥臭い自己開示のプロセスの先にしか、本当の意味でのWell-beingや他者との真の協調は生まれない。私自身の経験から、そう強く感じています。










