30 Voices

これからの幸せの手がかり

「分かち持つ」

作家 / 対話実践者

永井玲衣

作家・対話実践者。全国各地の学校、組織、コミュニティ、あるいは社会運動の現場などで、人々とともに問いを立てて考え合う「哲学対話」を幅広く実践している。政治や社会について語り出してみる「おずおずダイアログ」、せんそうについて表現を通して対話する写真家・八木咲とのユニット「せんそうってプロジェクト」、Gotch主催のムーブメントD2021などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)、『さみしくてごめん』(大和書房)など。

Q&A

「あいだ」に宿る ウェルビーイング“We-Being” を叶えるためのキーワード

「分かち持つ」

他者と問いや苦労などを「分かち持つ」ことです。正解を急いで誰かを一方的にジャッジするのではなく、一つの大きな皿の料理をみんなで分け合うように、みんなで不完全な言葉のままでモヤモヤを抱える。その静かな連帯が、社会への信頼を育む土台となるのではないでしょうか。

それを実感したエピソードは?

全国各地で哲学対話を重ねる中で、人がそれぞれ「取り替えのきかない存在」であることに出会う瞬間に、深い幸福を覚えます。私たちはつい他者を決めつけてしまいがちですが、対話を通じてその語りを聞くことで、自分の狭い想像力が心地よく打ち砕かれます。バラバラな他者同士が対話の場でかすかに重なり合い、「一緒にここにいられる」と実感すること。それこそが私たちが実感できる確かな幸福なんだと思います。

Interview

キーワードやエピソードの周辺には、どんな想いがあるのでしょうか。お話を伺いました。

孤立した「強い個人」から、ケアし合う「連関する存在」へ

──西洋的な「自立した強い個人」の幸福ではなく、アジア的な「私たち」の幸せを考えることには、どのような哲学的・社会的な意義があると思いますか?

人間をどういう存在として捉えるかという、根本的な視点の転換だと思います。従来の西洋的な思想では、何にも依存していない状態こそが「自立」であり、強い主体であるとされてきました。しかし、私たちは一人で独立して立っているわけではありません。 私たちはみんな、さまざまな脆さや有限性を抱えた身体を持っています。他者にケアされ、自らも他者をケアする。そうした互いにケアし合う依存関係があって初めて、私たちは存在できるはずです。「依存しているからこそ立てる」という人間観に立ち返るだけで、ウェルビーイングのあり方は、これまでとはまったく異なる手触りを持って立ち現れてくると思います。

──永井さんご自身が最近、そうした「私たちの幸せ」を実感された具体的な瞬間はありますか?

哲学対話の場にいると、充足感を覚えます。それは単に「わかってもらえた」という共感の心地よさだけではなく、むしろ自分の先入観が相手の語りによって「打ち砕かれる」喜びや、新たな発見の喜びに近いかもしれません。 「その人がその人としてそこにある」という事実に出会うと同時に、「私も私としてここにいるのだ」という事実に出会えるんです。互いのおかげで他者や自分と出会い直せる瞬間に、私は幸福を感じます。

手に収まるサイズのトリのぬいぐるみを机の上で撫でる永井さん

対話の場とは一種の「試み」の場所

──そもそも「哲学対話」とはどのような営みなのでしょうか。

哲学対話とは、知識の量を競うものでも、一つの正解やロジカルな結論を導き出すディベートでもありません。日常の中で私たちが「当たり前」と捉えていることに対して立ち止まり、「それってそもそもどういうこと?」などと参加者全員で問い直し、じっくりと思考を深めていく試みです。 「わかっていること」を発表する場ではなく、むしろ「わからない」という素朴な疑問や違和感こそが、対話を深める大切な燃料になります。問いそのものをみんなで囲んで悩み、考えるプロセス自体をもがく場なんです。

──相手を論破・説得しないといった「ジャッジの力学」から解放された空間ですね。それは人々にどのような安心感をもたらすと思いますか?

前提として、哲学対話の開き方や思いは現場ごとに異なりますし、私はその柔軟性こそが重要だと思っています。その上で私自身のスタンスをお話しすると、私は対話の場で「ルール」という言葉を意図的に使わず、「約束」という言い方をしています。対話の場とは一種の「試み」の場所だからです。私たちは不十分で、うまく相手の話を聞けないかもしれない。それでも、「そうしようと試みる場」であることが大切です。 普段の生活にあるような、誰かを瞬時にジャッジしたり決めつけたりすることから離れ、違う場を作ることを試みてみるという約束があるからこそ、「まとまらない、わかりにくい言葉のまま話してもいいんだ」と思える安心感が生まれます。実際、そうした場を通じて初めて自分の言葉を表現できたと語ってくださる参加者の方はたくさんいます。

永井さんがひらいたある日の哲学対話。床に座る人、椅子に座る人、老若男女車座になって対話を行う。
永井さんがひらいたある日の哲学対話(撮影:八木咲)

──哲学対話の大きな意義の一つとして「主体性の回復」が挙げられます。他者との間で言葉を交わすことで、なぜ主体性が回復していくのでしょうか。

例えば、「社会問題」について考える場を想像してみてください。多くの場合、社会問題は外からやってきた厄介なものであり、私たちはそれを「自分の問題ではない」と遠ざけがちです。しかし、哲学対話で決定的に重要なのは、そこに生きた「問い」があることです。 以前、「選挙」をテーマに対話をした際、ある参加者が「投票にすっぴんで行っていいのか」という問いを出してくれました。「投票はちゃんとした行為だから、ちゃんと化粧をしていかなければいけないと思った」と言うんです。 ここには無数の問いが詰まっています。「ちゃんとする=化粧をする」とはどうして言えるのだろう。ちゃんとした投票と、ちゃんとしていない投票の違いは何だろう。なぜ私たちは投票に対して「ちゃんとしたい」と思うのだろう。 問いを真ん中に置き、みんなで言葉を紡ぎながら育てていく。そうすると、最初は他人事だった大きな社会問題が、急にその人にとって手触りのある、個人的な問いへと変容していきます。みんなで考えているうちに、いつの間にか全員がその問いの「関係者」になってしまうのです。 問題について自分の身体を通して考えている感覚こそが主体性の回復であり、自分の思考に気づくプロセスでもあります。さらに、他者との対話を通じて「意外と私、こんなに深く考えられる」と自分を見直したり、周りの参加者に対して「この社会は一緒に生きていくだけの信頼に足る場所だ」という感覚をみんなで醸成していく。それこそが、哲学対話がもたらす主体性と社会の信頼の回復なのだと思います。

──「自分もこの社会を構成する当事者だ」という主体的な視点を持てるかどうかで、世界の見え方は全く変わってきますね。

本当にそう思います。私は写真家の八木咲さんとともに「戦争について考える場」を作るプロジェクトも行っていますが、そこでも多くの人が「自分は戦争を体験していないから」「知識がないから語る資格がない」と後ずさりしてしまいます。 でも、私たちは「戦争」という言葉を知っていますし、何かしらの形で情報に触れ、感じているはずです。「わからない」「遠く感じる」というその語り自体が、すでにその人の「戦争に関する大切な考え」です。「わからないということを、ぜひ教えてください」と私たちは伝えます。 対話の場で「自分は何も知らなくて」と一言外に出した瞬間、その人はすでに戦争について語る主体になっています。「語る資格がない」と自分の中に言葉を飲み込んでしまうのと、一回外に出して他者に聞かれ、また誰かの言葉を受け取って自分が変わっていく場に身を置くのとでは、世界との関わり方がまるで変わってくるはずです。

永井玲衣さんと写真家・八木咲さんによる『せんそうってプロジェクト』のワークショップで、参加者がそれぞれの言葉で「戦争」についてノートに綴った。
永井玲衣さんと写真家・八木咲さんによる『せんそうってプロジェクト』のワークショップで、参加者がそれぞれの言葉で「戦争」についてノートに綴った。

みんなで「問い」を囲む優しい共同体をつくる

──全員が幸福をわかち合える場を作るために、永井さんが意識されていることはありますか?

昔、私は自分の役割を「ファシリテーター」と呼んでいましたが、今はその肩書きを使うのをやめました。「ファシリテーター」と名乗ることで、自分一人が場を管理し、サービスを提供しなければならないという強迫観念に囚われてしまったからです。実際、私が場をコントロールしようとしていた頃は、参加者のみなさんが他者ではなく、私に向かって話していました。 だから仕切るのをやめ、「この場をこんな風に開いてみたいのですが、みなさんの話を聞かせてくれませんか」とお誘いする係になろうと決めました。

──リーダーが仕切ることを手放し、参加者全員で場をつくる。そのとき、組織やコミュニティのあり方にはどのような変化が起きるのでしょうか。

「一人で完璧に仕切ることはできないけれど、ここにいるみなさんと一緒にこの場を作ってみたい。よかったら力を貸してくれませんか」と周囲に素直に頼るようにしました。すると参加者のみなさんは自然と「場」に向かって言葉を投げかけるようになったのです。それは本当に美しい変化でした。 何か予期せぬトラブルや戸惑うことが起こっても、みんなでなんとかしようという空気が生まれる。これこそが、私の理想とする社会のあり方でもあります。対話の場はその瞬間自体が本番であると同時に、社会を一緒に生きるための「練習の場」なんです。

──場づくりにおいては重要なことはなんですか?

バラバラな私たちが集まるための「真ん中にある灯火」のような存在があること。哲学対話の場合、その真ん中にあるのが「問い」です。 問いとは「これについてわからないから、一人では抱えきれないから、みんな手伝ってほしい」という「わからなさ」の表明であり、ある種の「弱さの開示」でもあります。問いが真ん中にあると、人々は自然と協力的になります。その場で自分が一番輝こうとするのではなく、みんなでその問いに向き合おうとする優しい共同体のあり方が可能になるのだと、私は現場から教えてもらいました。

──組織や社会において、弱さを見せることを恐れる私たちが、不完全なままその場に馴染むためには、どうすればよいのでしょう。

実は「問い」そのものが、強力な武装解除の役割を果たしてくれます。あまりにも日常的で根本的な問いの前では、どんな専門家も等しく立ち尽くすしかないからです。 例えば以前、「切った爪はゴミなのか」という問いで対話を行いました。さっきまで自分の一部だったものを、切った瞬間にゴミとして捨てるのはなぜだろう。「私」という境界線は一体どこまでなのだろう。こうした問いに対して、世界的な権威や正解を持っている人はいません。問いがあまりにも大きくて不思議だからこそ、誰もが先生らしさを手放し、対等に「そういえば、なんでだろう」と一緒に立ち止まることができるのです。

両手で支えられる茶色のトリのぬいぐるみ。

私は今、一匹の問いプードルを抱っこしている

──現代では、日常のモヤモヤを解消するためにAIに相談するという選択肢も一般的になっています。一瞬で明確な回答をくれるAIと、人間同士が行う哲学対話にはどのような違いがあると思いますか?

ある対話の場で、一人の学生さんが非常に深いつぶやきをしてくれました。人間同士の対話では、言葉がポンポン進むわけではなく、とつとつとした語りや、しっとりとした「沈黙」の時間が流れます。彼女はその場が終わった後、こう言いました。「同じ問いをAIに投げかけたら、1秒で完璧な回答が返ってきた。AIには沈黙がなくて、それがなんだかつらかった」と。 この社会において、沈黙は効率を阻害する「埋めるべき隙間」として嫌われがちです。しかし対話を体験すると、その沈黙こそが、問いについて一緒に悩み、「この言葉を相手にどう届けようか」と迷っている、他者とともにいる時間そのものであることに身体で気づくことがあります。 情報を瞬時に検索・要約する道具としてAIは非常に便利です。しかし、一緒に本当に悩み、思考の深淵に沈み込み、新しいものに出会うというプロセスにおいて、私たちはまだAIの全肯定や即答だけでは、満たされない複雑さを持っているのだと思います。

──哲学対話を通じてモヤモヤがすぐに解決して楽になるわけではないけれど、そのモヤモヤ自体を「悪」とせず、ともに抱えていくための知恵がそこにはありそうですね。

モヤモヤ自体がつらいというよりは、「一人で抱え込んでいること」がしんどいのだと思います。だからこそ、他者とそれを「分かち持つ」ことで、私たちはなんとか生きていけるし、気持ちが軽くなる。 私はよくダジャレで、問いを「トイプードル」に例えて説明します。モヤモヤを深刻に抱え込むと苦しいですが、「私は今、一匹の問いプードルを抱っこしているんだ」と言い換えてみる。そうすると、「この子の毛並みは意外とふわふわだな」「ちょっと怪訝な顔をしていて可愛いな」と、自分のモヤモヤを愛おしく見つめ直す余裕が生まれます。 その問いプードルを自分一人で抱え持つのではなく、「ちょっと見て」「私にも撫でさせて」とみんなで囲んで撫でてみる。そうすれば、モヤモヤは消え去ることはなくても、少し機嫌が良くなったり、優しく育ったりするかもしれない。人間である以上、モヤモヤや問いは生きている限り消えません。それを打破すべき敵とみなすのではなく、不完全なまま、それらを抱えて生きていく。それこそが、私たちが哲学対話の現場から受け取れる、最も温かいウェルビーイングの形なのかもしれません。

問いプードルの絵を描く永井さんの手元。
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